贅沢とは時間を使うことだ

慢性的に不眠を抱えている私の個人的な感覚でしかないのかも知らないが、深い夜の間中、眠れないでいつづけると、例えば教育機関に通うことで感じていたような、あるいは賃労働で感じていたような、そういった流動的な活動の流れの中において感じるものとしての時間という感覚がまるでなくなる瞬間がある。その静止の感覚はひたっと頭に張り付いて、しばしば夜が明けるまで、そして力が尽きるまで続くのだが、こういうことが日常的に起こるのは当然だが甚だしく疲れる。

そうしたときがちがちに凝った精神を休ませるために使っていたものが、例えば美術館、博物館であり、また映画館だった。

映画館へはそういうときは寝に行った。映画というものは、撮られるまえは流動的な活動の時間のさなかにあるが、完成してしまったものは変化のしようがないのだから、かつてあった、そして俯瞰することのできる時間すなわち運動として、現実に時間のバックラッシュを起こした精神を突き合わせるにある意味最適なものではある。みれば時間が流れていく、止めてみせる、パラレルにするというテクニークさえ現実そのものがパラレルなのだから単純なものである。そういうところに身を置けばわりあい簡単に自らの緊張はほどけていくものだった。そんな弛緩効果を狙って睡眠に落ちるために通うこともままあった。起きて見続けたとしてもそれはそれでよい。リンパを流してやる要領だ。

映画が短時間型の作用とするならば、美術館や博物館は中時間型だろうか。それはまず空間に意味がある。物品を展示するための施設の展示室というのは、物品を展示するためだけにある。当たり前のことだが、このことが重要で、ここには物品のみがある、物を突きつけられるからには、否応なくそれに向き合うことになる。

物が作られる過程、それをなす技術を体得するまでの変化とまたその技術、そしてそれがここに存在しているという現実的な事実を把握するのには数分とかからないわけだが、そのために費やされた他人の時間は膨大であるはずだ。これは本を読むのとも似ていて、本を書く速さより、読む速さの方が大抵は速いものだろう。このような時間の激甚な消費は予後がよい。これに関しては、その蓄積された時間が長ければ長いほどよい。同じことはだから、道端でもできるし遺跡でもできるにはできる。しかし密室でしか得られないものあって、それはまた別の作用の話なのだが。

何かを見ていると理解が生まれる、と同時に疑問も生じる。それを論理的に頭の中で解決していくとまた理解へたどり着き、そんな過程が上述の精神の経過へとなるのだが、さてこそ当方のもともと持ち合わせた教養が心許ないのに加え、集中力もそぞろであればそんな考えの道筋は八衢に入り惑いぼこぼこと夾雑物も生んでいくのだ。あるいはそのために行くのである。なぜならそれは置かれたある物品に必然的に結びついている時間とは関係のない、新たに湧出した固有の時間の獲得に他ならないからだ。道端で軽々には済ませない理由はそこにある。泉があるとわかっている場所になるべくなら行きたいものではないか。

しかしながら昨今の状況はいただけない。そういったかたちで自らの心を隔離できる場所が悉く潰されている。

仕方なく公園で快晴の空を眺めたり、多摩川上流で水を見てみたりするのだが、果たしてそういうことで良いのだろうか。良くはないから懊悩もおさまらないのだろう。

一体なにを求めていて、何が足りないか。

久しく遠ざかりかけている賃労働の現場の常態をあえて考えてみよう、いま日本で働くということの大方は、利益を生むことを目的として組織だって動くことだ。すると一つ一つの行動は最大の効率でなされるように最適化され、一人の行動は伝播した先、複数の膨大な人間、あるいは機械の行動へとつながり、何かしらの価値のある物を出力する。また人はそれを対価を支払って入手し、自らのなんらかの糧とする。

よってつまり、目下回転中の経済の中に生み出された品々に、その物の記憶の中には無駄な時間はほとんどないと言ってよい。セブンイレブンの杏仁豆腐一個ができあがる。その一個のためだけにかけられた時間は不可逆に除算されていって、極論その杏仁豆腐はこの場に突然現れたというのに等しい。あっても、なくてもよい。だがある。なぜあるのか。それに手をかけ蓋を開けて覗き込む菓子の表面のこのつややかさはなんだ。

だからこそ、今やあえてここに時間の泉を作ろうと思う。

僅々二百円の杏仁豆腐を、一時間かけて食べていく、これは最高に贅沢だと、その意味では言えようではないか。

使わされるのではなく、使うこと、それも自ら愛でつつ使うこと、時間に対して接するそうした態度のみが、本質的な贅沢というものを享受しうる唯一の姿なのではないか。

なぜならどうだ、この味だ。