夏の自戒、2023年

このひと月ほどの句は読み返したくもないほどひどいと自覚しているが、その原因のひとつは暑さと歯科治療とで体がままならない時が多かったという言い訳だが、もうひとつは根本的にものを見る眼があいていないということだ。

あらためて書き始めて、言葉を玩具にすることの虚しさを思うようになった。

叶うことならば、口から発せられたものが直ちに句になっているようであってほしい、というのは、必ずしも一般の日常語で書くということとまったく重なるわけではなく、なぜなら私自身の体の中にすでに古典的日本語は深く滲んでいるのであって、もののあはれはやはり感じる気がするし、しかしカレー最高としか言いようのない時も同じくあるのだから、そういう継ぎ目のない語彙体系がたしかにあることを確かめ続けたい。

直近なんとかものすることができないかと一応特に意識をしていることで、「が」と「で」をあえて削らないという点がある。これらは句についての個人的な審美眼からすると響きのシェイプを著しく損なうことの多い語で、削って整えたほうが見栄えするじっさいだが、こうあるべきという直感的言語としてはその形で存在するはずなのでこのまま掬い取りたく思っている。

そうして毎日同じ道を朝夕歩いている。同じことを繰り返すものだから、数日しか現れない虫や、新しくついた花、電燈の寿命や、犬の体調などがわかるようになった。ゆくゆくは落ち葉を見ればどの葉が落ちたのかわかるところまで行きたい。

思えば夏というものに、他ごとをせず真正面から向き合ったのは初めてかもしれないのだが、初夏の生命が伸長するアトモスフィアに包まれたのはほんの一瞬のことで、残りの大半は死の臭いに満ちていた。

生命は日々、生きているだけで多くを失っているのだと突きつけられたことだった。

本意という観念にもてあそばれ、季題としての事物はその姿にのみ存在すると、そんなはずはないのにわれわれはいつもうっかりしてそう思い込みがちだが、時を過ぎてこわれた花のなんと無惨で身の置きどころのないことか。花ばかりではない、枝にも、葉のひとつひとつにもそれぞれの顔がある。

汗をかき、涙を流し、莞爾と笑う、そんなおのれの肉のあるうれしさを、どうかして彼らにも感じてもらえはしないか。朝顔は私の早起きの気息で咲かないか。空腹に唱和して西瓜の縞が増えないか。名前を呼ぶから来る蜻蛉なのではないか。そんなことはないのだけれど、いのちにまつわるあらゆる無力感に、そういう自分以外の、また自らにつきまとう物悲しさに、無言をもって抗わず、ひたに認めていきたいものだと思う。