ただ一句、それが作品であること

読むことはときどき楽しい。ひょっとすると本当は、読むことだけが生活のうちに出会う愚かでつまらない種々の中で、ほとんど限られた楽しいことであるのかもしれない。それといって確実な興奮なり感動なりの確信が置かれているわけでは、未知のものでもあればなおのこと、世の中がおしなべてそうであるように、必ずしもない、わけではあるのだが、しかしいかなる文字であれ読むことで得られる何ものかが、読むに際して無意識のうちに期待されていた理想的な読後というありかたに比して、いつもどこか不全感を伴うものであったとしても、あるいは、その不全こそが読むという行為に自分を誘い、それが永遠に続くだろうことを担保してくれているのかもしれない。いま少し、こんなものを読んだという印象を自らなりに簡単に書いておこうかと思う。

かつて角川『俳句』昭和38年4月号にて、「現代俳句の百人」という特集が組まれたことがあった。当代の大家たちの作品を一堂に集め、その当時の俳句の今を映すという企画意図だったようで、特集扉には「この特集に寄せられた作品はすべて未発表の作品である.現代俳句の今日を問う精華と全貌とがここにあるといえないだろうか.」の文言が見られる。これは4月号を正篇とし、翌5月号でも続篇としてこちらは少し若い世代の作家たちが同様に100名掲載されている。

こういうと普通の大型作品特集と思われるだろうが、注目すべきことには本特集で掲載された作家たちの俳句作品は各々一句のみなのである。申し訳程度の短文さえなく、一人一頁を割いて、ど真ん中に一句、そして名前と所属が載るのみ。それが100頁分あるわけだ。

戦前の綜合誌勃興のころより現在まで、雑誌における俳句作品の発表の形式というのは数にばらつきはあれど数句から数十句、それに題がついたものをひとまとまりとして掲載されることが多く、よって当時としてもこうしたいささか唐突な掲載のされ方には少なからぬ反響があったようである。

これについての言説の一つに「俳句評論」昭和38年9月号「時評」の高柳重信の文章がある。少し言い添えておくと、このころは昭和33年に重信を中心として同人誌「俳句評論」が創刊され、彼が同誌や綜合誌などを舞台に全方位的に俳句界への批判を加えはじめていた時期であり、また昭和37年には重信の師である富澤赤黄男や、西東三鬼が亡くなっている。

当該時評の内容は、本特集に見られる作品のほとんどに、このような「孤立無援の状況下におかれてこそ、もつとも真価をあらわすべきものである」はずの俳句が、それを「ほとんど予期していなかつた」ように感じられ、「したがつて、いまや、その心細さに身のおきどころもないように、小さく揺れ動いている可憐きわまる作品が、実に数多く、そこに見られた」という、いわゆる厳正独立の一句としての緊密さに欠けるものばかりではないかという批判である。しかし中でこれは、とあげているものもあり、一つは当時の最長老格であった松根東洋城の句。「奥嵯峨あだし野 さいの磧、/暮るるも気づかず佇みつ……/ありし昔の“むくろ捨て場”を眼の底に」と長い前書のついた

宵闇や肉(しゝ)をごめきて骸(から)おぼろ  東洋城

に「いわばこの特集の圧巻とも感じられた」と賛辞を送る。そしてもう一つが

古草の芽や古草の芽なりけり  友二

という石塚友二の句である。この句に対し重信はこんなことを書く。少し長くなるが引用する。

「俳句表現の中の、それぞれの言葉のはたらきについて、彼なりの認識が厳として存在し、決してその限界以上の無理強いをしないことの決意のようなものが、はつきりと感じられた。如何にして、出来るだけ多くのことを言わずに置くか、という彼の一種の矜恃のようなものが、ともかくもこの作品を、まぎれもなき俳句たらしめているところによく注目しなければいけないと思う。問題は、この彼の作品が、彼なりの俳句表現に対する認識から生まれたということであり、彼以外の作家、たとえば僕は、僕なりのその認識から出発するであろうということである」

「俳句評論」昭和38年9月号

と朦朧体な言い口だが、つまり問題は、この「彼なりの俳句表現に対する認識」とは何なのかということだ。

石塚友二の俳句世間でのデビューは、『俳句研究』昭和15年3月号に発表した「方寸虚実」80句と言えるだろう。当時の編集長石橋貞吉(山本健吉)の唐突な依頼を受け誌面に載ったこの作品は数ヶ月後の同じく『俳句研究』9月号に掲載された「心塵半歳」135句とともに、大いに話題になった。

話題になった、というのは主に悪い方でである。〈裔いまだ体中の微塵枯木星〉〈金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける〉など境涯性の色濃さ、また漢語を多用した生硬な文体など、そういった竹を割ったような句柄を好かない面々より随分な罵言をくらったようだ。

男のマリッジブルー、とも言うべき、結婚を控えた不思議と心細い心境を描いた類いない名作小説「松風」を友二が発表するのは昭和17年、それに先立つ俳句連作「方寸虚実」の出発は未だ彼がどの世界に誰とも知られていないころのことである。

第二句集『方寸虚実』(昭和16年)の後書にはこうある。「私の俳句は日々の私の生活の記録であつて、そしてそれが一切である」。十八歳の折より横光利一の許で文学を志し長年出入りをしながら、一度も原稿を見せたことのなかった友二に横光が「一体、何の目的で出入りを続けてゐるのか」と怒声を浴びせても、しかし横光とは違い自分が書くのは私小説以外ではありえないと考えるがために、余人のように気軽には原稿を見せられはしないと頑なに思いつづけた友二である。それゆえに遂に横光には見せないままに雑誌へ短篇を発表するが、掲載誌発行の翌日に横光から原稿用紙6枚分に亘る望外の褒辞が届けられる。『俳句の本Ⅱ』(昭和55年、筑摩書房)の中の「私の俳句作法」では、かような来歴を語ったうえで「私の俳句は、この私小説の俳句化である」ときっぱり言い切る。

しかしやはり彼のこれらの説明は、単なる方便でしかないのではとも思わせられる。つまり彼の言葉は、彼が作品で何を書いていると見せたいかというポーズに過ぎないのであり、人の手を離れた俳句作品について、それを読むことから立ち上がってくるものが何なのかを教えてくれる絶対のものではない。

正直なところ私にはその「彼なりの俳句表現に対する認識」が何なのかは明瞭にはわからない。感覚的な書きとばしのように見えないでもなく、真面目に向き合う種類のものではないだろうと一笑に付す事ができないではないが、という揺らぎにしてもひとたび視座を変えたならば必ず兆さないとも言えない。

ただ、友二という人を考え、その句を読むことを通して、彼の中には彼の思う俳句があり、それがはっきりと目に見えてただ一句の姿をとり、まさしく俳句となっていること、重信の言う「彼なりの俳句表現に対する認識」という曰く言いがたいものが確かにあるようだとわかる、わかってしまう、そんな気がすることは確かで、であればその心に従うにやぶさかではないわけだから、そうと信じ味読するのみである。果たしてこれが、なかなかいい句だと思えているのだということが、まあ結局はすべてなんだろうなと納得しているところだ。

だらだらと連ねてきたが、もとより眠れぬ夜の気散じ、由無しごころによるそぞろ事でもあったれば、ここらで擱筆することとする。

〈古草〉の句を収める句集『曠日』(昭和41年)より愛誦句をいま一つ句を引いておこう。下五は「てくらがり」と読むものだろう、蛇足ながら。

年来るに寸前も只手闇  友二