島田牙城の青の時代

島田牙城、本名を島田尋郎(ひろお)という。彼について人が語る時、よく話題に上ることに、若い頃の田中裕明との交遊が挙げられるが、本稿ではそこに着目しつつ、結社誌「青」を中心に牙城青年時代の状況をさらってみたい。

島田尋郎は、父・刀根夫、母・たみ子との間に生まれた。島田刀根夫はかつて「ホトトギス」に投句し高濱虚子に師事した俳人で、虚子晩年の弟子の中には幾人も有名な者がいるが、関西で旺盛に活動した波多野爽波とは古くからの仲であった。爽波が自らの俳句誌「青」を創刊するのは未だ虚子が在世中の時であるが、関東には深見けん二や清崎敏郎、関西には大峯あきら、また九州には野見山朱鳥といった人物が虚子のもとに集っていた頃のこと、刀根夫もそこにうち混じり、関東と関西の「ホトトギス」の若者たちが集まって開かれていた稽古会には爽波らとともに虚子を囲んで研鑽を積んだのだった。

昭和四十九年(一九七四)、きりのいい数字の第二百五十号の発刊を次の年に控えた爽波の結社誌「青」では、刀根夫は古株の会員として在籍し続けていて、爽波選の雑詠投句欄では彼の妻、たみ子が頭角を現してきていた。

当時、主宰の爽波は勤め先の関係で徳島に在住していた。雑詠欄は、年代によってばらつきはあるが、「青」の場合概ねいつも百数十人ほどの投句者があった。結社誌についている投句用紙(ページを切り取って書き込み、封筒に入れて送る)には七句分の欄があったが、雑詠欄の掲載は最大六句、それだけの句数が載るのは巻頭から六、七人といったところで、続いて五句掲載が十数人、四句掲載が数十人、といったように並べられる。たみ子はこの頃、巻頭をとるや取らず、という雑詠のトップランナーとして「青」に投句していた。

三月、「青」第二百三十四号の雑詠欄に高校生の投句者が現れる。地名は「向日」となっているが、数号のちに「高槻高」とするこのとき高校二年生、のちに牙城と名前を改めるこの投句者の当時の号は島田尋、初投句時は三句入選。

遠くにも受験子の窓雨に濡れ

下駄の音我が家の庭に椿あり

四月、爽波が徳島から大阪へ転勤することになる。これを機に関西同人たちの活動は盛り上がったようで、紙面の句会報や、句会案内を見る限り京都や大阪あたりで頻繁に爽波を囲んだ句会が開かれはじめている。島田尋は高校三年生になり、およそ雑詠欄の三、四句あたりの位置で毎月推移する。

十月、大阪句会報「とくに高校生の尋君の上達は目を見張らすものがあり、(中略)先生も尋君の作句がよい傾向にあり更にその線を伸ばすよう激励されたが、本人は更によい句を作りたいと意欲盛んなところをみせ、私達一同は新しい力が育って行くことに心強さとうれしさを感じた。」当時、彼と同世代で「青」の句会に出てくるものは他におらず、目立っていたようである。

十一月、波多野爽波「掛稲のすぐそこにある湯吞かな」が「青」誌面に発表される。のちに出る第二句集『湯吞』の表題句となる作品である。

十二月、島田尋はじめて雑詠六句入選。四席。

昭和五十年(一九七五)一月、雑詠三句欄に高槻高・木村登、一句欄に西山公平の名前が出る。どちらもおそらく島田尋の誘いによるものだろう。

二月、波多野爽波「左義長へ鵯もはげしく来て鳴きぬ」。後記の爽波筆で「島田尋君を中心とする高校生の俳句グループが生まれるというので乙訓の刀根男居へ行って、つい近所の神社で図らずも「左義長」に出会った。乙訓の藪も今は向日市、どんどん家が建って藪もめっきり減ってしまったが、その残った藪をかたわらに左義長が煙を上げていた」とある。「がきの会」と呼ばれる島田尋を中心とした十代二十代のメンバーからなるグループである。この爽波の左義長の句は、赤尾兜子が新聞で取りあげ、少しく話題になった様子。「青」の誌面には表立って出てきてはいないが、島田尋は入会後早い段階で近隣の高校生、おそらくは同級生などを中心に声を掛けて俳句をする仲間を集めていたようだ。

三月、雑詠四句に武庫川高・松田ひさ子の名が見える。

四月、島田尋の紹介で、松田尚子、上野茂夫、塩見正が会員となる。雑詠四句に京都女子校の生徒の名も見える。木村登は雑詠掲載時の地名が「仏教大」となる。木村と島田は同学年のようで、しかし島田尋は「高槻高」から「向日」となり、この時期から雑詠でとられる句数も減って行く。のち大学に入ったことが確認されるので、このときから浪人期間に入ったことがわかる。

五月、爽波選による「青」雑詠には、句が載ったあとに、爽波による前月作品の選後評が掲載される。ときによって数頁を使った長文であったり、気になった句を挙げるに留まることもある。選後評より。「「青」にも島田尋君の出現に続いて昨今頓に十代の高校生諸君の投稿が増えてきた」。

六月、松田尚子の紹介で、小豆沢裕子、野添秋左、久保継子が入会。雑詠三句に茨木高・山本悦子。

七月、島田尋の紹介で、山本悦子、小笠原利忠、西山公平が入会する。

九月、この月の爽波選後評より「特に今年に入ってから若い層の参加が目立ち始めた。それも島田尋君を始めとする十代の高校生諸君の活躍である。(略)雑詠への投句、句会への出席者からして、それら諸君の数も十名は下らぬかと思う」。

昭和五十一年(一九七六)三月、「昭和50年度雑詠印象の作家」という、年間回顧の文章で、執筆者全11人中3人が島田尋を挙げる。この時期、島田尋は雑詠では三、四句程度の掲載、ほかの同世代の者の方が雑詠欄での掲載順が先になっていることもしばしばで、「青」誌では少し目立たなくなっている。

四月、爽波作品「沈丁の花をじろりと見て過ぐる」。がきの会の活動報告的な文章は定期的にはなく、時たま木村登、松田尚子、小豆沢裕子などが小文で友人達との交遊をほのめかす程度で詳らかではないが、この時機関誌「冬芽」が刊行されたらしい。年度が変わっても島田尋の地名欄は「向日」から変わらず、浪人二年目に入ったようである。それに伴ってか、雑詠採用句数は更に減る。

九月、爽波作品「蓑蟲にうすうす目鼻ありにけり」。島田尋雑詠は二句採用にまで落ち込む。

昭和五十二年(一九七七)一月、爽波作品「あかあかと屛風の裾の忘れもの」

二月、爽波後記に「一月は若い大学生諸君の「童(がき)の会」の鍛錬会ということで湖西・高島へ一泊の吟行に出かけました」とある。「青」誌を見る限りこの一年ほどは松田尚子あたりを中心に句会などが行われていたようで、浪人二年目の冬、という時期を考えると島田尋は合宿には参加していないだろう。

四月、雑詠欄に現れる名が島田尋から島田牙城となる。雑詠五句入選「末黒野へ弾かれ出でし沢の水」

五月、雑詠での名および地名欄が「島田牙城 関西大」となる。大学に入学。雑詠二席六句入選「昏れだせば早き西山涅槃絵図」「平らかなやうで坂道花なづな」。二段組み三頁半の文章「ある一句より」も書いている。がきの会での仲間、山本悦子の句をめぐる随想から、爽波の句などと引き比べた作品論。

六月、牙城雑詠五句入選「田楽の宿は岬の雨の中」

七月、爽波作品「銀行員最も滝に近くゐて」。牙城雑詠二句入選。島田牙城の紹介で、北野高校三年の田中裕明が「青」に入会する。裕明雑詠三句入選「紫雲英草まるく敷きつめ子が二人」「葉桜となりて細木や校舎裏」「今年竹指につめたし雲流る」

八月、後記にて牙城の名前が出てくる。編集長はりまだいすけ後記より「今月の編集から新人の牙城君が参加(中略)しかし借りた部屋が七宝工芸家のアトリエとあって、何となくやる気がでてくるから不思議である。」、編集部の場所も新しくなったようである。山本洋子後記から「編集室も今月から編集長のつてによって心斎橋のビル内のアトリエの一室を借りることが出来る運びになり、その上、若鮎のごとき牙城君を迎えて心機一転というところでしょうか」。大学に入学すると誌面でも目に見えて張り切りがわかる牙城だが、周囲からも期待を掛けられていたようだ。この頃はそれなりに十代の会員が増えていた中で、この世代の中心的人物と見られていた。後記に牙城が書く。「三月に編集入りの話を聞いてから四か月経って、ようやくそれが実現した」大学入学と同時に、編集部に手伝いに来ないかと誘われていたらしい。牙城雑詠五句入選「ワイシヤツを素肌に着てや初鰹」。ところで、忠士後記「だいすけ編集長は胃の中にたんぽぽが咲いたような激痛に悩まされ」とさらっとあるが、だいすけ氏、体調を崩したようである。

九月、だいすけ後記「皆様にご心配をかけた私の胃潰瘍も、岡井省二大黒手のおかげで、まずは全快(略)しかし、岡井大黒手は実に名医で、まず私の診断は触診三十秒で胃潰瘍と診断、そして「一ヵ月で治します」と宣告。早速の精密検査で胃の中央上壁で潰瘍が発見され、驚くと同時にこれはもう岡井大黒手に命をあずけるより仕方なしと決心」。加藤楸邨の「寒雷」、そして森澄雄の「杉」から出発し、晩年は密教の空気を巧みに取り込んだ異色の作風で一家をなした岡井省二だが、このような生活的交流が関西の俳人同士の間であったようだ。

十月、牙城雑詠五句入選「鰯雲黒足袋草に隠れたり」。裕明雑詠三句入選「新聞紙破れ鬼灯赤くなる」「炎天下起重機すこし傾いて」。爽波の選後評がこの月は長く、個々の作品についてというより、もう少し踏みこんだ話をしている。「極く大ざっぱにいって、俳句を始めて十年ぐらいというものは将来への開花を培うために土壌づくりの期間と考えてしかるべきである。言葉を換えていうならば俳句における体力づくりの期間とでもいおうか。各種のスポーツの練習においてそうである如く、とも角作って作り抜くのである。豊富な練習量を身につけてこそ、試合に臨んで臨機応変のプレーが為し得るし、一瞬の反射的動作もとり得るわけで、いちいち頭で考えて行動していたのでは後手後手を踏んでしまう」。いま現在一般に俳句スポーツ説と呼ばれ引かれることの多い爽波の文章はもっと年が下ってからのものであることが多いが、昔からこのような姿勢を説いていた。

十一月、総合誌『俳句研究』で年に一度行われていた新人賞、第五回五十句競作にて牙城が佳作第三席に入る。島田牙城「桟橋」。所属は「青」。『俳句研究』十一月号に抄出八句が掲載。

桟橋に木なればの穴冴返る
墓石を彫るに湯吞と桜餅
蛇の衣二つとなりて川下る

これが牙城の俳句総合誌初掲載作品である。

昭和五十三年(一九七八)一月、島田たみ子随筆より「尋郎(牙城)曰く、爽波先生はいろいろなこと、話し方に至るまで年相応のものを身につけているのに俺のオヤジとオフクロはどうしていつまでもこうなんだろうと、なにをいい出すのかと思って聞いてみると、オヤジは今だにオッチョコチョイだし、オフクロは相変らずガサツでこの調子でいくと十年後もこの状態のままのような気がして大変心配だというのである」。島田家の人々のたあいない会話が窺える。と、同時に、このころ牙城が爽波に相当入れ込んでいる様子も感じられるようだ。雑詠欄では、牙城と裕明は三から五句のあいだを推移。採用句数が同じになることが増えてくるが、まだ裕明は牙城より先の掲載になったことはない。

三月、爽波作品「雪兎作つて溶けて如意ヶ嶽」。裕明雑詠三句「初めてのまちゆつくりと寒椿」。

四月、牙城雑詠六句「末黒野を鶫ころろと歩きけり」。

五月、裕明の雑詠での地名欄が「京都大」に。入学。

六月、爽波作品「十一が鳴いて玉巻く谿の葛」。牙城雑詠四句、裕明雑詠五句「口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし」。はじめて裕明の掲載順が牙城を抜く。ここからほぼ毎月のように裕明の掲載順が牙城の前になっていく。

九月、がきの会稽古会記掲載(八月五、六日開催)、裕明が圧倒的に点を集めていた。

十月、「青」誌にて、「25周年記念特別作品」というものが募集されており、この月の号はその発表号だった。結社内の賞である「青賞」は会員がその一年で雑詠にとられた作品をさらに自選して応募するものだが、こちらは未発表作品十五句一組での応募。同人が審査にあたった。田中裕明が「熊野は海」で準賞となる。

帰省して二タ夜の雨に幟棹
石積んでありおしろいに海の砂
峰雲や熊野は海の大鴉
この橋は父が作りし蝉しぐれ
小さき貝数食ひにけり大夕焼

裕明への評をいくつか抜粋する。吉本伊智朗評「なによりも溢れる若さ、その抒情がたまらない。(略)時に見える脆弱さ、甘さをどう受け止めるか」。牧野春駒評「この作者(引用者註・裕明)の他の作品を見ていても、もう私達にはひろげ得ないであろうと思われる方向での写生の可能性をひろげてくれそうな期待を持たせてくれる(略)今回の作品に関する限りこの作者(引用者註・牙城)を裕明氏より上位に推し得ないのは、年令の割に妙に老成した作品が多くて、裕明氏ほど夢を持たせてくれない点に不満があるからである」。南上敦子評「(引用者註・裕明作品の)みづみづしさに心を奪われた。構えのない無垢な目を感じる」。小谷千恵評「田中裕明君の「熊野は海」は少年の目に映った海辺の有様が瑞々しい感性で捕えられている。写生力も地に着いていて非常に新鮮としかいいようのない作品であった」。若さ、夢、みずみずしさ、無垢な目、新鮮、とこのようなイメージで当時の裕明句は捉えられている。吉本評にある「抒情」という部分がポイントだろう。この様な感覚をほかの選考委員も抱いているようだが、しかし写生の目はしっかりとある、というところで点を集めた。抄出した句だけではわかりにくいが、この一連は「夏暁」が二句目に置かれ、時間的また天候的な推移を経て「夜汽車」の句で終わる、熊野への帰省のひとまとまりの時を描いたかのように見える構成的な連作で、このあたりの郷愁を誘う構成をして「抒情」と言わしめたものと思われる。

島田牙城も「桔梗」で候補に上がっており評点の合計では十位であった。

火を焚きて垣根焦げたる鰻かな
峯雲や火の国よりの一封書
沢蟹の流れてきたる筧かな
絵襖の外に出しあり白桔梗

一葉落ち畑小屋に人寝てゐたる

「老成」というよりは、景が見えすぎる句が多く、おそらくはとにかく写生を推奨した当時の「青」のやり方に従って、その目で見たものを書いているのだろうが、少し演出が勝ちすぎているきらいがある。

十一月、裕明雑詠五句入選「朝顔や水荷ひゆく神の前」「水澄むや梯子の影が草の中」。
「私の読んだ本」という一頁書評にて、裕明が梶井基次郎『若き詩人の手紙』を取りあげる。「良い手紙を書くというのはむずかしい、手紙で心を伝えるというのはむずかしいと思います。一度良い手紙を書いてみたい。そう思いながら、ぱらぱらっとこの本を読んでいます。」手紙というモチーフは向後の裕明の作によく見られるようになるものだが、その関心の一端が語られている。

裕明後記「大学に入ってから毎日のように京都へ通っているわけですが、あまり色々と歩きまわったことはありません。花園へも記念大会の時に初めて足を運びました。記念大会の前の日は急に冷え込んで、妙心寺の境内で食べた肉まんの暖かさが、とても嬉しく思えました。九月号より「青」の校正を手伝わせて戴いています。雑誌が出来上るまでには、多くの人の手が掛っているということを改めて知りました」写生の徒の砦と見える「青」で、あまり歩きまわらない、と言って大丈夫なのか、とも思うが、このあたりのいなし方が裕明のムードを思わせる。また、編集部に混じるようになったようである。

十二月、雑詠欄に「上田青蛙 甲南大」。数年前から上田善紀の名で投句してきていたが、掲載頻度はまちまちだった。この月の号より改名したと見える。

昭和五十四年(一九七九)一月、裕明雑詠巻頭六句入選。この世代の作家の中で初めての「青」雑詠巻頭である。

ラグビーの選手あつまる桜の木
青写真駅のホームが濡れてをり
水涸るる上に道あり人通る
栗の木の下に屈みて息白し
産土神へ懸けしばかりの菜もありぬ
大根引く人三方に立ちにけり

また裕明は、季語についてのエッセイを書いていて、「左義長」を挙げて自分がまだ「青」にいなかったころ、がきの会結成時に詠まれた爽波の句に触れている。それとなく感じられる敬意がある。

二月、牙城雑詠巻頭六句。

ちよろと虹頂にあり蕪蒸
蕪汁鶏舎に雨漏り激しうて
泛く松葉動かす鯉や十二月
鶏の羽根かたまり流れ雪の葱
涸れ池の泥に刺さりし櫟の葉
大年の田の一枚に火を高く

先月の裕明巻頭を受け、やはり大いに奮起したのだろう。季題を含め、名詞のやや過剰な主張の強さ、写生句でありながら大振りな言葉のとりまわしは特徴としてそのままに、柔軟に句の型を駆使しつつある、技量の幅を広げた成長の見える一連と言える。のちに牙城は「青」を抜けるが、ここに採られた句を表題句に第一句集『火を高く』は編まれることとなる。

裕明雑詠二席六句。

氷屋の氷にしぐれゐたりけり
降りぎはの柳揺れゐる火桶かな
藁塚といふ大いなるもの倒す
桑枯れて空に水吹く消防車
霜除や下駄の鼻緒の朱も失せて
昼からは蔭なる障子開きあり

先月の巻頭につづく二席。この号は、牙城と裕明が雑詠の先頭に並んでいる。句会録や大会での記録をみると裕明もほかの「青」の仲間と同じく、写生を旨として作句はしているのだろうが、推敲の過程でなのか、どこか出所のわからない語彙や、文脈が持ち込まれ、端正に立っているようで妙な方向に開けた裕明句の世界がある。

京都新年句会があったようで、記録が載っている。爽波「眠りてもなほ双六の旅にあり」。牙城「福寿草四囲を吉野の杉として」。裕明「紙を干す土間の火鉢に灰少し」「寒漉の上流に住む人であり」

牙城がこの会の記録を文章で書いている。「裕明・青蛙と三人で、あきらさんをそのお寺に訪ねたのです。私達三人は、一月三日から五日までを吉野新子の青蛙の実家で一日百句に挑戦したのですが、その最終日にあきらさんからお話しを聞く機会を得たのでした。
懇親会が始まると、すぐに座が崩れはじめます。(略)京都句会の方々の歌・禎次郎さんの手品などのあと、私も裕明ともども歌わされたのですが、こちらも俳句と一緒で修行不足のようです。魚目さんのやんやの喝采の中であきらさんが十八番の三曲を歌われます。そして、青一番の芸達者爽波先生の登場です。美川憲一・弘田三枝子と歌い継ぎ、蘭房さんの囃しに乗せた阿波踊で締括られましたが、この阿波踊がいつ見ても一級品。
魚目さん、あきらさんがいつしか向き合って話し込んでおられます。
餅箱に昼の月ある鞍馬村 洋子
松とるや伊勢も大和も昼の月 あきら
洋子の月は具体的で、あきらの月は世界を包み込んでいる夜の月と同じ感覚で捉えた昼の月。あきらよ、あんたは季語の使い方が上手すぎて損してる。もっとおもいきり離した季語を使ったら面白いのに」。

牙城、裕明、青蛙の三人で百句を作る合宿、百句会がこの頃始まったと見える。句会後宴席の様子も、ほほえましいものである。学生の牙城と裕明が歌を歌わされ、一時期を徳島で過ごした主宰爽波が阿波踊りを踊る。かたやあきらと魚目はその日に書いた句について真面目に話し込んでいる、とても充実した時間、大げさに言うならば、この頃が「青」とその青年たちとのひとときの蜜月であったのだろうと思われる。

裕明後記「がきの会も一月十五日で四周年を迎え、その日は結成句会のときと同じように向日神社へ左義長を見にゆきました。僕は途中からがきの会に加わったので、結成当時のことはよく知らないのですが、四年間もよく続いてきたものだと思います。」最後の一文から何か微妙なニュアンスを受け取ってよいものなのか、のちに牙城の強い憤懣の口調で解散を告げられる同会、小さないざこざが起こっていたのか、もしくは単に裕明のとぼけであるか。

三月、裕明後記「三月の十六、十七、十八日は牙城さん青蛙さんと木曽へ行く予定。一月の吉野行のように一日百句に挑戦します。(吉野では一日百句を達成したのは牙城さんだけでしたが)帰りには魚目さんのお宅をお訪ねしたいと思っています」。百句会は着々と開かれているようである。

四月、牙城が「乙訓魂花」という随筆を載せている。自らの育った土地である乙訓への愛着を、その名の不思議な魅力とともに語る好文章。調べればわかるだろう地名の由来は、そのあやしげな響きを愛で続けたいためにあえて知りたくない、という。

裕明後記「春休みのがきの稽古会は吉川へ。総勢十人でだいすけさんのお宅に乗り込みました。爽波先生の句の通りすぐそこに田圃があって、嬉しくなって縁側へ湯呑を持ち出したのは青蛙さん。木曽や吉野ほど山と山の間隔が詰まってなくて風通しの良い明るいところです。」この時もまだ爽波の第二句集『湯吞』は刊行されていないが、すでに「青」の中では繰り返し話題になる句として認知されていたようである。

五月、「薫風競詠」という、男性会員の競詠作品が突然載る。上田青蛙「平伏して雪解の水を飲みにけり」「霜柱擡げる泥の乾びをり」。島田牙城「一枚の巌に鶏鳴春の雪」「蜷の道檜の蔭となりにけり」。田中裕明「蕗味噌や山は一枚の雪被り」「蜘蛛の糸吹かれて蜷の水離れ」

裕明雑詠三席六句入選。「筧水勢ひよしや百千鳥」「亀鳴くや男は無口なるべしと」

六月、「大いに語ろう―青の青年達」という座談が掲載される。四月十四日に、小豆沢裕子、上田青蛙、木村登、島田牙城、田中裕明、田中雅己という六名の「青」の学生会員が集まり、裕明宅にて収録が行われたようだ。内容は若者らしい荒い放言で、爽波の話を中心に、自分たちが写生を一本の柱として書いていることへの自負が語られている。青蛙、次いで牙城の発言が多く、熱っぽく、爽波への信頼と、また近くにいて依っているがために出て来る爽波近作への懐疑なども。座談の本筋とはずれているが裕明の発言を拾っておく。「青蛙さんの先輩で、中学の先生やってはる人の家訪ねましたよね。植林してる家で、気の長い山の話を聞いたりしてると、そのまま俳句になるわけやないし、別に俳句にしようと聞くんやないけど、なにか、自然を詠むときにプラスになるという気はしますね」。

「短信」という欄に青蛙の小文「去る四月二十八日、甲南大学文学研究会主催による友岡子郷講演が行われ、拝聴させて頂きました。講演に先立って控室に子郷氏を訪ね、少しお話しをする機会を得ました。かなり神経質そうな方のようでした」。友岡子郷はこの当時よりずっと以前、「青」に所属し青年作家として活躍したが、やがて離れた。ちょうど牙城が入会した頃に、正式に同人を降りている。青蛙はなまいきな観察をしたためているが、子郷とは大学が同じで、おそらくそれもあって親近感を持っていたようだ。

ところで山本洋子後記に「東雲七号」が出たとの記述がある。これはがきの会の会誌「冬芽」が改名したものだろう。七号とあるからそれなりに回を重ねている。

裕明雑詠五句「嬉しくもなき甘茶佛見てゐたり」。

七月、爽波作品「葭切にざあざあ水を使ひけり」。裕明雑詠二席六句「大学も葵祭のきのふけふ」。牙城雑詠五句「薬の日思ひおもひに上流へ」。

八月、裕明雑詠六句「茄子太る当麻はきのふ大雨と」。牙城雑詠四句「樫の木の茂りの奥の当麻人」。モチーフに通うものがあるのは、やはり連れだって書いた吟行句が多いということだろうか。

牙城が「高濱虚子俳論研究(一)」を載せる。爽波はしばしばスローガン的に何かを強く奨励することがあり、時には写生の重要性であったり、季題についてであったりするのだが、高濱虚子の「ホトトギス」雑詠入選句をまとめた『ホトトギス雑詠選集』の熟読を勧めることもよくあり、そのさらに大元の源泉たる虚子を読み込まねばと青年たちが奮い立ったのは至極自然な流れと思われる。この回は八頁に渡る文章、連載として、裕明、青蛙とリレーされて続く。

九月、この号は第三百号、記念号である。青畝、兜子、完市、晴子、信子、兜太、杞陽、時彦、六林男、飛旅子、重信、登四郎らから寄せられた爽波小論。友岡子郷による「波多野爽波私論」。梅原猛と大峯あきらの対談。さらに「青」創刊号の復刻再録と、気合の入った充実の内容で、商業流通の文芸誌かと思わせる厚さである。ここでも以前の記念号と同じく、未発表十五句一組での特別作品の募集が行われ、牙城が三席、裕明が四席に入る。

 島田牙城「白川郷」

山路の四葩の奥は人を絶つ
白樺に山刀立てとほし鴨
濁り酒山の四葩はこぶしほど
夏大根砥石一緒に桶の中
山彦や盛夏の火吹竹煤け

選考は「青」同人の十三人によって行われた。まず、牙城を推した評を引く。一位に推した刀根夫評「何よりも対象にとり組む熱意を感じさせるのがよい。手先の器用さがないのもよい。いささか力が入りすぎているように思われる句もないではないが、若さがみなぎっているのが楽しい」。一位に推す山本洋子評「何よりも作者が自然の中に深く身をしずめるようにして対象を見据える真摯なまなざしが感じられて好感を持った。全体的に気負った感じもあるけれど、この作者がすでに若さや感覚だけで勝負する段階を超えて、何か懸命に地に足をつけて歩き出したことも感じさせる作品群」。五位に推す小谷千恵評「俳句の骨法を身に沁ませたかのように巧みで劇的でさえある詠いぶりは大層魅力がある」。五位に推した吉本伊智朗評「力をこめて詠っている。句柄としてはまことに好ましいが、内容は案外弱い。もっと若者らしい発想で思い切って詠んでほしい」。前田直子評「意欲溢れる一篇。昨年よりぐんと力がある」。

この島田牙城「白川郷」一連は、以前の裕明連作「熊野は海」で見られたと同じ、構成的な連作形式を採用している。表題に示されるように、実際に当地へ赴いて嘱目で書き切ったものなのだろう。句風はこれまでの、おそらくは写生に忠実な、見て書ききる態度を貫きながら、取り上げる素材の差配により静的でありながら一種の侠気を纏った作品となっている。「人を断つ」の山路と自らの意識が一体となったような擬人化による強い断定、「山刀立て」と山間の生活の気配を匂わせながらもモノに力を持たせる抑制。「こぶしほど」と、これも自らの肉体に引き付けた見立てだが、どれも単純な構造の比喩の句というばかりに終わらせてはおらず、草いきれが横溢するような山の素材を、うまく自らの認識と絡めて巧みな措辞の上に仕立てている。「山彦や盛夏の火吹竹煤け」、句意明瞭、軽く読めるが、「盛夏の」と差し込まれた季題が全体の季感をがっちり支配し「火吹竹煤け」と、口ずさむに心地よいリズムと相まってまずまず清新な句の姿であろう。選評で言われていることも、概ね今までの牙城の句風が一段洗練されてよい形になっている、という指摘だろう。

 田中裕明「北近江」

夏の旅みづうみ白くあらはれし
鳶もまたしたしき鳥よ青嵐
長夕焼旅で書く文余白なし
やはらかき宿の御飯や草干す夜
田の中の夏暁を泣く赤子

裕明作品への評を引いてみる。爽波選評、彼のいつもの安定した力から考えれば必ずしも上出来とは言えない、と前置きしつつ「作者が北近江の地に身を置いて、詠いたいものを全部そのままぶちまけたような潔さが全体を通じて伝わってくる。「気負い」なしでそういうものを出せるのがこの作者の資質とでも言おうか」。一位に推した宇佐美魚目評「この人(引用者註・裕明)の、ものに溶け入ろうとするひろやかで素朴な諷詠心と言葉づかいのきびしさから来るやさしい句のすがたに資質のよさと光を感得した」。一位に推した大峯あきら評「技術上での未熟を押し切るだけの詩的切実さが、田中氏の作にあった(略)一気に駆け抜ける抒情の速度が新鮮である。大勢の喧噪をひとり離れて、自分が見たい物を、別に気負うこともなく、じっと見ている、といったところが、この人の作品にはある」。四位に裕明を推す山本洋子評「瑞々しい感覚と若さ、それは他の人には見られないものであるようである。それだけに、この作者にはもっと多くを期待したい」。裕明を三位に推す牧野春駒評「この作者が意外に早く老成した句を作りはじめたことに驚きもし、同時に今回これ以上上位に推し得ない根拠にもなった。しかし「もの」の把握の柔軟さという点で、将来を期待させてくれる作者であることには変りはない」。

裕明もまた、牙城と同じ旅吟の一連である。モノの存在感で強く押す牙城句とは対照的に、ゆるやかな文体に特異な華がある。この時期すでに「青」の中では裕明が実力のある作者だということは認められていたので、この作品は今ひとつ先のある過渡的なものと受け止められたか。

山本洋子編集後記に「この記念号の編集はだいすけさんを中心にして「童の会」のメンバーが一ヵ月がかりであたって下さったもので」とある。この号から「青」の編集が本格的に大学生たちに任されていく。

十月、第二十五回角川俳句賞候補に島田牙城「伝燈」、島田たみ子「近江」、田中裕明「夜も雪」が入る。『俳句』十月号に掲載。牙城とたみ子には草間時彦の○がついた。時彦の座談での発言より島田牙城「伝燈」の句を引く。

肥桶をひつくり返し山の蝶
飛魚の月の兎となりにけり
青き実桜に重量級の雨

普段の「青」でも見られるモノ感の強い作から、冒険的な抽象性をもったものなど幅が広い連作だったようだ。森澄雄がこの候補作にはとても否定的で、ずいぶん腐している。「百合の芽の立入禁止区域なる」など、確かにこれはあまり良くないと同感だが、しかし何かいま現在の牙城の作風にも一脈通じるところがあるとも言える。他の候補者に茨木和生、黒田杏子、鈴木太郎、中田剛、西村和子、黛執などの名も見える。黛はこのとき佳作。
 爽波作品「あらあらの干物吹かれ芋の秋」。裕明雑詠巻頭六句入選「昼花火続くや松の色さまざま」「泳ぎながら見る灯籠を焼く焔」「従妹九ツ蓬でみがく水眼鏡」。青蛙三席六句入選「桐一葉流れて来たる深みあり」「行水に畑なかの石動かしぬ」。牙城雑詠六席六句入選「山ならび立つ涼しさの青磁缺け」「火を焚いてかげろふとろろ葵かな」

裕明は一頁書評「私の読んだ本」で小林秀雄『本居宣長』について読んでないのに書いている。

洋子後記「さて三百号を出し終えた今月で編集陣はフレッシュマンと交代します。(中略)今後も同様のご支援とご協力を情熱あふれた若手トリオ、牙城・裕明・青蛙君にお寄せ下さいますようお願い申し上げます」。この号から編集に携わっていた年長の同人らが引くことになる。

十一月、裕明雑詠巻頭六句「宵闇や水打ちしあとぽつねんと」「なんとなく子規忌は蚊遣香を炷き」。後記を青年三人が書いている。

十二月、牙城雑詠巻頭六句「瀧しぶき菊のつぼみをはじきけり」「傘の骨つつたつ山の刈田かな」「赤松や十月終に何もせず」。裕明雑詠次席六句「杣人の長身たわむ露の月」「神發ちてただに楮の吹かれをり」「川むかうみどりにお茶の花の雨」

十月二十八日の三百号記念大会記が載っており、『俳句』編集長鈴木豊一「「角川俳句賞」の予選を「青」の方が三人ほど通過して、全く偶然で、中にはしかも島田さん親子っていうハプニングがございまして」という発言がある。たみ子はいつの間にか茨木和生の「運河」にも所属するようになっていた。

青蛙後記「毎年正月休みには、裕明、牙城が吉野へやって来る。三人が「百句会」と呼ぶ俳句修行の新年合宿である」。百句会は続いているようである。

昭和五十五年(一九八〇)一月、牙城雑詠巻頭六句「髪置や岩累々と頂へ」「黄落の本を読みゐる泣き黒子」「さまざまを蟲歩きをる冬田かな」。また、三ヶ月連続競詠という作品欄が始まる。牙城作、表題は「炭を挽く」。「猟犬のあと来る主貴船川」「炭を挽く小さな虹を滝壺に」

裕明雑詠四席六句「狸汁ふと人形の目鼻だち」「猟期はやとしごろの目のうつくしく」「木の葉髪おぼつかなくも筆をとり」

三人体制で始まった青年編集部は、なかなかにやはり張り切っていたようである。雑詠など作品を見ても充実の書きぶりで、後記など小文からも気概があふれている。裕明後記から引く「牙城編集長の抱負は、「青」の中での試行錯誤を繰りかえしてゆける誌面づくりをしたい、とのこと。青蛙さんは、校正ミスゼロを目指すというし、僕は「青」を日本一の雑誌にするためにがんばります」。日本一の雑誌、とは興奮が窺えるではないか。

二月、「青」に田中裕明第一句集『山信』が誌上掲載される。これはもとは墨書コピーの私家版で十部のみ作られたもので、主宰の爽波には「青」三百号記念の式の最中に渡された。「青」に入会してからこれまでの句をまとめたものである。現在では『セレクション俳人 田中裕明集』(邑書林)、『田中裕明全句集』(ふらんす堂)などで読める。

爽波作品「炬燵出て歩いてゆけば嵐山」。裕明雑詠三席六句「咳の子に籾山たかくなりにけり」「餅搗や燃え付きし枝もちあるく」。牙城雑詠四席六句「山快活に冬苺しづくせる」「麦蒔きの用意ともなき夜を更かす」。三ヶ月連続競詠島田牙城、表題は「心中深く」。「炭を負ふ佛顔して木は立てり」「数へ日の蕪切り売り大徳寺」「年用意一力のその前を行く」「笹子鳴く心中深くゐる人ぞ」。
裕明の後記によれば、新年の百句会では大峯あきらと前登志夫の家をたずねたようだ。

三月、青賞が発表される。田中裕明「神發ちて」が受賞作と一点差で次席、佳作。昭和五十四年度の青賞は前年度雑詠入選句数六十句以上、または巻頭獲得者を対象に、十二名に雑詠入選句の中から年間自選作品二十句の提出を依頼、爽波、あきら、魚目、伊智朗の四人が選考した。

嬉しくもなき甘茶佛見てゐたり
大学も葵祭のきのふけふ
杣人の長身たわむ露の月
神發ちてただに楮の吹かれをり

青蛙雑詠三席六句。裕明雑詠四席六句「初釜の客雨粒の顔なりし」「探梅やここも人住むぬくさにて」。牙城雑詠五席六句「蓬莱や滝壺うづむ蘆の屑」「藤蔓の痕を零下の杉の幹」。牙城三ヶ月連続競詠は、表題「吉野」。「屠蘇に酔ひ言葉少なに山へ入る」「お降りや山照つてゐる一里先」「遠野火に星となりたき火の粉あり」。これは新年の百句会で書かれた句だろう。

四月、牙城雑詠二席六句「臘梅や大阪城の道普請」「馬酔木より白き夕日や恋に冥し」。裕明雑詠三席六句「島見えて波の高しや寒施行」「初午やものめづらしき山歩き」

五月、総合誌『俳句研究』五月号に島田牙城の八句作品が掲載される。所属は、青・東雲。表題は「元神」。

さまざまな虫歩きをる冬田かな
極月の細き竹の子宇陀郡
山快活に冬苺しづくせる

多少の推敲が加えられているものの、すでに「青」の雑詠に投句したものでまとめられている。当時は総合誌発表は未発表句、という注文は厳密にはなされなかったか。爽波選をこのために頼んで今一度作品を見てもらい句を揃えたとも考えられる。

牙城雑詠巻頭六句「鵯の羽根冷やしゐる芹生かな」「池に水もどりし夜を雛祭」「卒業をあしたと餘呉の空弛む」。裕明雑詠二席六句「夕東風につれだちてくる佛師達」「まつさきに起きだして草芳しき」「春の磴よくぞ大雨とはなりぬ」。

六月、山口昭男が氷上ただしの紹介で「青」に加入。裕明雑詠巻頭六句「引鶴や大きな傘のあふられて」「沈丁花冥界ときに波の間に」「鉋抱く村の童やさくらちる」。牙城雑詠四句入選。

青蛙、田中雅己とともに、急に山廬の飯田龍太を訪ねたらしい、牙城が随筆を書いている。そういうときは連絡してくれよ、と、出かけようとしていた龍太だったが、付き合って雑談してくれる。そういうときは連絡しましょう。

七月、青蛙巻頭六句「甲斐駒へ朝日まともや鐵線花」「武具飾る甲斐は水田のはるかなり」「武具飾る堤の風はいつも疾し」。牙城雑詠二席六句「桃の花下駄を濡らして歸るなり」「はじけ散る薄暑の雨や桑畑」「病あがりなりと端午の竿立てる」。裕明雑詠三席六句「天道虫宵の電車の明るくて」「病ひぬけして春蟬にむかひけり」「早苗饗のひたぶる風に硯あり」。青年編集部の三人が揃って雑詠巻頭の一頁を占めた。青蛙は初巻頭である、おそらく山廬での作だろう。牙城句「病あがり」裕明句「病ひぬけ」、と似た言葉が使われている。普通に受け取れば、病気が治った、という意味だが、この青年三人の編集部が一番活発だった時期のこと、同じ部屋で夜通し酒でも飲んでぐったりと朝を迎えて詠んだ宿酔の嘱目句、ととるのは読みすぎだろうか。

八月、裕明三席六句「軒しづくごしに鞍馬の夏柳」「この旅も半ばは雨の夏雲雀」。牙城雑詠五句「本尊にカーテンを引きさみだるる」。

九月、青新人賞の発表号である。これはすでに何回か行われた、記念号での特別作品と同じ形式の募集、未発表句十五句一組、全体で五十六篇の応募があった。田中裕明、受賞。表題は「西する旅」。

西國の驛に夜明けを待つ立夏
北ゆきて早苗投げゐる人にあふ
日わたりて松影ほそる夏花かな
夏蕨ここに眠りて日暮まで

このあたりの頃には、青年たちに正字の使用が多く見られるようになっている。
裕明雑詠三席六句「きらきら葬後の闇の桑いちご」「逢ふときはいつも雨なる青胡桃」。牙城雑詠五句「峰雲や一灯昼の森の闇」。山口昭男雑詠五句「七夕の中天よぎるセスナ機や」

牙城が後記で穏やかでないことを書いている。「マンネリズムに窮し、一部のもののみの活動の場に堕してしまった「がきの会」を八月四日付けで解散した」。「青」誌を追ってみる限り、この頃は編集部に入った牙城、裕明、青蛙の活躍が特に目立ち、牙城浪人時代に出てきていた人たちの名前が出てくることは減っていた。

十月、裕明雑詠三席六句「渚ゆく鉄路朝蟬しづかなる」「桐一葉入江かはらず寺はなく」「夏の潮ひらく手紙にうた七首」。裕明三ヶ月連続競詠、表題「秋風」。「蟬とぶを見てむらさきを思ふかな」。青蛙雑詠四席六句「となり村見えてにぎやか展墓みち」。青蛙三ヶ月連続競詠、表題「湖の島」。「池の辺も杉のにほひや昼寝どき」。牙城雑詠五句「爽やかや松葉火に入れ火の太り」。

青蛙の後記より「人には言へない病に罹つてしまつた。胃炎である。吐血には不覚であつた。(略)「胃炎」の診断が下された日、翌日より例のごとくわが下宿に無賃宿泊してゐた牙城が、吟行しようと相談してゐたにもかかはらず、突として酒を飲みにゆかうと誘惑した。で、結果としてやむなくそれに随ったのであるが、どうも私の病は、わが盟友に問題があるやうだ。さう言へば、八月の半分は、牙城と一緒に寝た。」まったく仲の良いことである。

また、第二十六回角川俳句賞にて田中裕明「水底の父」が候補に。他の候補者に黛執、長谷川櫂、藤原月彦、茨木和生などの名も見える。

十一月、裕明雑詠巻頭六句「雪舟は多くのこらず秋螢」「悉く全集にあり衣被」「野分雲悼みてことばうつくしく」。青蛙二席六句「豊年の畦に多しや土龍あな」。牙城雑詠四句「青丹よし葱植う雨となりにけり」「神の庭大鍋芋を煮るにあり」

牙城後記、何かふわふわとしたことを書いている。「何といっても来年で二十四歳である。仕事についておれば気にもなるまいが、どうも来年は大学五年生となりそう(実は決定済)だから胸にこたえる。しかしこたえ方がどうも足らない。ズシンズシンと感じればさっさと卒業もし仕事にもつくのだろうが……。(略)青蛙の先月号の後記はだいぶんと状況把握に足りないところがある。僕がさそったのは確かだが、盃が明くと「オイ、蒸発してしもてん。入れてえや」と青蛙の方から催促してきたことを付記しておきたい」。緊張感があるのかないのかといった感じである。

十二月、総合誌『俳句とエッセイ』十二月号の新鋭作品欄に田中裕明が「野分雲」十句を寄せている。「悉く全集にあり衣被」「野分雲悼みてことばうつくしく」「穴惑ばらの刺繡を身につけて」「好きな絵の売れずにあれば草紅葉」「雲の上は莊子外篇月の照」。この新人作品欄は主に結社からの推薦を受けて寄稿されているようで、結社推薦でない作者には所属誌の代わりに「俳句とエッセイ推薦」の表記がつく。「青」と所属の明示されている裕明は、爽波の推薦を受けて載ったのだろう。雑詠の投句と依頼原稿提出時期の差は定かではないが、結果的に「青」雑詠と重複している句もあり「穴惑」「好きな絵の」の句などは次に挙げる同月の雑詠巻頭句である。

裕明巻頭六句「穴惑ばらの刺繡を身につけて」「いづれかはかの学僧のしぐれ傘」「川風に吹かれてなみだ鶏頭も」。青蛙三席六句。牙城雑詠五句「籾干して咳込むときのうしろ向き」

牙城が同人作品の鑑賞欄である碧鐘鑑賞で「最近〈風雅〉について夢想するようになった」という。虚子が亡くなる前、最後の正月に書いた「風雅とは大きな言葉老の春」、また「玉藻」の研究座談会が、「次は『風雅』についてやりませう」との虚子の言葉を聞きながら、果たされないまま終わってしまった心残りを合わせて思い、さらに芭蕉の「それ天地は風雅なり。万象もまた風雅なり。造化に随て四時を友とす」などといった言葉を思い出す。加えて言う。「何時もの樣に青蛙が泊まりに來た時、ふと私はこう吐いた。曰ク〈風雅〉っていうのはきっと〈付き合い〉の事なんだろうなあ、と。青蛙はあきらさんの短冊の懸かる柱に靠れて静かに、うん、そうかも知れんなあ、と答えた。この會話が卽に〈風雅〉であると思う」。元が虚子の、あるいは芭蕉の曖昧なタームである。これというはっきりしたものは伝えてこないが、それでいいのだろう。要は、彼はこの時、そのような気分だったのだ。

昭和五十六年(一九八一)一月、この号を最後に牙城は「青」を去る。雑詠の投句も先月でやめていたようだ。どのような経緯があったか、結社誌の誌面からだけではわからないが、牙城は後記で感傷的な気分を伝えている。「今年はいやな事もあったのに、新しい歳を迎える事が少しこわい。どうしてかは知らないがこわい。(略)新しい一年は人間存在の本質としての風雅を問いつめてゆきたい」。いったい何を言っているのかはよくわからないが、それがむしろやぶれかぶれな心象を表している、ととれなくもない。

裕明雑詠巻頭六句「猪垣のうしろにひろふかたつむり」「ゆつくりと掃く音のして小鳥村」。

総合誌『俳句』一月号の特集で「俳句を明日につなぐために」という企画が行われた。若い世代とみられる人々に作品と短文を願ったものか。「青」からは田中裕明と島田牙城が作品と文章を載せている。島田牙城作品は「朴落葉」、この原稿では所属を「青」としている。島田牙城が「青」の作家として発表した最後の作品である。

朴葉落つ吉野の水の濃きところ
朴葉散る下をくぐりて鶲かな

同特集での裕明作品は表題「竹生島」。

柚子湯して斑のある鳥のこゑあはき
冬至湯や吹かれゐて紺竹生島

同じ特集中に、石島岳、小澤實、岡田耕治、片山由美子、鎌倉佐弓、瀬戸正洋、対馬康子、中岡毅雄、夏石番矢、長谷川櫂、正木ゆう子、三村純也、山下千津子、四ッ谷龍などがいる。

二月、青蛙後記「内部のことで恐縮だが、本号よりしばらく二人だけでの編輯となった。別段牙城と酒代の支払いのことでけんかしているのでもなく、哲学の勉強?!に専一する為。従って、若手三人衆が分裂したのではなくどうぞ御心配なく」。

裕明雑詠六句「さめてまた一と声浮き寝のこゑ」。

三月、裕明巻頭六句「御降りに獵夫はとほくゆきにけり」。青蛙雑詠五句「歳晩の三河訛りも旅三日」

四月、田中裕明が選考委員七人の全員の満票を得、次点と二倍の点差をつけて青賞を受賞。青賞は前年度雑詠入選上位の人物に年間自選作品二十句の提出を依頼、選考委員は爽波、あきら、魚目、伊智朗、直子、敦子、洋子。以下、評を引く。爽波選評「年間の成績が示す通り、やはりこの人の作品が群を抜いていた。(略)物に捉われない柔軟な感性と若さに似合わぬ自在な表現技法の体得によって、「一と味違う」この人なりの句境をほぼ確立したかのように思われる。この世代の作家として何処へでも罷通る前途有為な若者と云えよう」。魚目選評「作品は安定していて流石と思わせたがもうぽつぽつ狭く嶮しい自分の道を歩く時が来ているのではないだろうか。どうせ泥にまみれるなら若い時と思うが如何」。

裕明雑詠二席六句「白梅は坂なりにして別れけり」「しげく逢はば飽かむ余寒の軒しづく」。

総合誌『俳句研究』四月号に島田牙城が作品十句を寄稿。所属は、無所属となっている。表題「雪吊」。

雪吊と伽藍と同じ空の中
雪吊にすぐ雑木山あるばかり
雪吊の縄を継ぎたる瘤緊まる
秘すべきは秘し大年の流れ星
悲しみはその辺にして松の雪
蓬莱や妊みて酒暈うるはしく

「青」を抜ける前から出始めていた傾向だが、季題主義的に、ストレートに対象そのものを詠む句もあれば、ときおり情感をわざと甘く捉えるような憂愁の浮かんだ句も目につくようになっていた。「悲しみは」は流れすぎだろうが、「蓬莱や」はその点うまく感じを言い留め得ているようだ。

また一方、上田青蛙の名がこの月の「青」に見えない。

五月、田中裕明と上田青蛙が「青」同人に推挙される。同人になると雑詠への投句は卒業し、同人の作品欄「碧鍾」に作品を載せることになる。当時の碧鍾は二部に別れており、「青」創刊当時、高濱虚子より送られた二句、

青といふ雑誌チューリップヒヤシンス
チューリップヒヤシンスのち梅椿

にちなんで、「梅」と「椿」とに、並ぶ順序も含めて爽波が同人作品を排列していた。しかしそれにしても何という挨拶句かと思う。

田中裕明特別作品十五句「春の海」。「いちにちをあるきどほしの初桜」「汚れたる月の辛夷をわたるなり」。

後記で裕明「重大発表があります」。上田青蛙が結婚したようである。

六月、『湯吞』特集。ようやく主宰波多野爽波の第二句集『湯吞』が出たのである。第一句集から二十五年の歳月を経ての刊行だった。

「新同人の顔」という頁で同人になった面面の小文が載っている。上田青蛙「俳句から遠ざかつて五カ月が經つ。相棒が私の元を去つてから、急激に作句意欲が衰へた。そのことをして拒絶理由のいちばんに数へあげるとするならば、あまりに私の精神の脆さを暴露することにならうか。いまの私には、一句たりとも生み生す意欲も力もない。けれども、同人の責任と名と、そして自身の理想のもとに、新たな一歩を踏み出し始めるべき時が来てゐるのだと考へてゐる」。相棒と言っているのは牙城のことだろう。

対して裕明は思索家である。「潜在的と顕在的という二つの概念が、そもそも対立するものなのか、私たちは問い直すべきなのかも知れない。「象徴とは一つの語またはイメージの中にいくつかの意味が未分化のまま負荷されている状態をさす」という言葉をそのまま鵜のみにしてよいとは思えない。私たちの象徴はつねに飛翔であると同時に、世界の亀裂を指し示す磁針でなければならない筈だ。俳句が必ずしも象徴の産物であるとは限らないことが不満である」。

裕明碧鍾梅四位「雨安居」。「うみづきの目の冴えてゐる粽の夜」「雨安居の大きな鳥が松のうへ」。

七月、裕明碧鍾梅三位「さみだれ魚」。「筍を抱へてあれば池に雨」「大き鳥さみだれ魚をくはへ飛ぶ」

八月、裕明碧鍾梅一位「藻刈舟」。「柿の木に早乙女のきて凭れけり」「思ひ出せぬ川のなまへに藻刈舟」「川床づくり木桶に花を浮かべあり」

九月、裕明碧鍾梅四位「夏芝居」。「のうぜんのことのはじめに女下駄」

十月、裕明碧鍾梅三位「夏深き」。「のうぜんの花のかるさに頼みごと」「この入江もつともくらき踊りの夜

同人になってからも裕明の句作は衰えない。かえってどこかぐんぐんと濃度が増してくるようだ。

久しぶりに青蛙が書いていて、作品も出している。青蛙碧鍾椿末席「さやけしと」。「雪嶺に一燦のこり立版古」「さやけしと框に花のこぼれけり」「秋風や井水で流す鮎の腑(わた)」

青蛙後記「この後記を書くのも久しぶりのことだ。ずいぶんと相棒には迷惑をかけてしまった。裕明、ごめんなさい」。

十一月、裕明碧鍾梅五位「白装束」。「深酒とおもふ柳の散る夜は」「松手入ふいに気づきし独語癖」。青蛙碧鍾椿末席「山傾ぐ」。「佛見る素足に二百十日かな」「きらきらと紫菀の村に入りにけり 」「椋鳥や父おもふとき山傾ぐ」

『俳句とエッセイ』十一月号に上田靑蛙作品十二句「さやけしと」掲載。島田牙城は「青」を出たあと、牧羊社に一時期勤めた(「しばかぶれ」第二集インタビュー第二部参照)ようだが、牙城と裕明が『俳句研究』や『俳句』と、賞などを通じて関わりが生まれていたのに比べ、靑蛙は「青」の外での認知度は低かったと思われるから、これは牙城が依頼したのだろう。

萩むらを見てゐる旅の終はりかな
さやけしと框に花のこぼれけり
渡り鳥ただに鋏の音すなり

十月の碧鐘六句とは全て重複、十一月のものとも二句重複している。爽波選を経たものか、「急激に作句意欲が衰へ」 ていて出す句がほとんどなかったということでもあろう。その心境にあってこの佳吟、靑蛙渾身の地力を見る気がする。 しかし果たしてこのとき、十一月号を最後に、上田靑蛙は「青」からいなくなってしまう。以後、裕明が一人で編集を請け負うことになる。

十二月、裕明碧鍾「くらまみち」。「ただ長くあり晩秋のくらまみち」「冬紅葉くらきばかりに鹿匂ふ」

『俳句とエッセイ』十二月号で「現代の抒情」という特集が組まれ、「若手俳人の抒情と俳句意識」という短文のアンケートが載る。それに田中裕明が答えている。他の面々は、 岩井英雅、小澤實、鎌倉佐弓、中田剛、夏石番矢、西島陽子朗、藤原月彦、三村純也、和田耕三郎。裕明の回答は晦渋なもので、意味が定かに取りにくいが、「俳句と現代の関係」についての問いに答えた、「同時代という言葉がある。他人の体験に自分のそれを重ねあわせることがどうしてもできない私が、この同時代という言葉をとてつもなく不思議なものとして眺めるのはしごく当りまえのことかもしれない。果たして言葉の共時性という不確かなものを頼って私たちの精神生活は営まれているのだろうか」というところは古典的なものへの裕明の志向の一端を語っているだろうか。

昭和五十七年(一九八二)一月、裕明碧鍾梅四位「西風の」。「屛風より榛の木立を見るとなく」「西風の茶の花うけしたなごころ」。

二月、裕明碧鍾梅五位「水の玉」。「山茶花の日晒しにある大き皿」。山口昭男雑詠三席六句「末枯やメツキ工場人募る」「弔電の束に蟋蟀まぎれ込み」「寒椿名刺の角の折れてゐし」。昭男は生活詠と言って良いか、細かな人事的景物をうまく詠みこむ作風でこの頃は書いている。

裕明は後記に、「夢」という言葉を連想的に広げた浮遊感のある小文を「半分眠りながら」書いている。「時代の夢という言葉を軸にすれば、どんな時代においても、まさにその時代を生きる人がいるかぎり夢があって、それを暗い河の流れを見るように透視することができれば、夢の歴史がそこに現前することになります。ヨーロッパがもっともヨーロッパであったと言われる時代の夢がどのようなものであったかを知ることは(中略)つまりそれは世紀末の個人がそれぞれにどんな夢をうたったかということですが。(略)二十世紀もあと二十年足らずとなり、これからわたしたちも世紀末の夢を生きるわけです」。

三月、もともと赤尾兜子の「渦」にいた当時東大生の岸本尚毅が「青」に入会。尚毅雑詠三句入選「元旦の飛魚の出汁香りけり」「初詣ほろほろ砂をこぼす山」「初詣痩せたる岩を拝みけり」

裕明碧鍾梅四位「雪見舟」。「七種の文書きなほし書きなほし」「冬桜そこに失せものあるごとく」。

四月、爽波作品「骰子の一の目赤し春の山」。牧羊社の総合誌『俳句とエッセイ』五月号に爽波の五十句が掲載される。「青」を出たあと、島田牙城は牧羊社に一時期勤めたようだが、これは牙城が依頼したのだろうか。

田中裕明が大学を卒業、就職。そして四月中に角川俳句賞受賞の報が届いたようである。平成三十年の今も破られていない、史上最年少の受賞記録である。

五月、後記で受賞を祝う爽波、裕明は就職後に編集部を離れており、後記でそのことを述べている。「なさけない話ですが編集をつづけてゆくことが時間的にもむずかしくなって、先月号の編集がさいごの仕事でした。ふりかえれば、ほんとうに短い期間で。「青」を日本一の雑誌にするという願いの万分の一も自分でできなかったことが残念でなりません。ただ非常によい勉強をさせてもらったと思っています。どうもありがとうございました」。

日本一の雑誌にする、とは、牙城、青蛙、裕明の三人が編集部をともにしていたとき、自分たちが「青」を、ひいては俳句そのものを(と彼らが本気で思っていたように筆者には見えて仕方がない)、これから背負っていくんだという興奮に沸いていたあの頃、裕明が語った言葉である。裕明を「青」に引き入れた牙城がいなくなり、また青蛙もいなくなり、ひとり編集を続けた裕明も引くこととなった。ここに彼らにとっての「青」の、一つの時代が終わったのだった。

田中惣一郎

初出:「しばかぶれ」第二集