思い出、水の泡

子供のころは、いつか忘れられたように思われる、けれども確実に見たことのない風景というものをよく夢で見た。学校から帰って近くの川辺へ出かけて秘密基地遊びをし、日が暮れる前に家に戻り夕飯を待つまでの間のまどろみにだとか、冬休みが終わり、ちょうど三学期の始まるその日に罹った水疱瘡の熱で朦朧となりながら寝て過ごす幾日かの、その意識の浮沈の最中にだとか。風景は砂漠であったり、鬱蒼とした森林であったりした。奥へ進めば泉があった。確かにそこを歩き、見回して、何かに怯えたり、見惚れたりした。だが目覚めるとその光景は途端に色褪せ、現実の視野を取り戻すにしたがってはっきりと頭の中から消え失せた。折々の夢はむらっけの強い童心に追いかけられて、時たま思い出され、何かしらの意味づけをされそうになりまたその手から逃れて再び消えた。

やがて年を経るにつれ、そうした夢さえ見ることはなくなり、頭の中に遊ぶ風景は現実の思い出に取って代わられた。実際に経験した楽しかったこと、友だちに囲まれていくらかは無邪気でいられたころに山で遊んだこと。心を寄せて一人の人と毎日のように会った一年にも満たない月日のこと。しかしそれもいつからか現実感を失って、強く思い出されることは少なくなっていった。

何が残されたのかはよくわからない。ただ思うだけでは、何もないようにも思われる。だがそんな心に詩歌が触れるとき、膝蓋腱反射のように、出し抜けに広がる恍惚境があった。

わけもなく訪れた旅先で拾った一つの木の実が、帰り着いた自室の小さな抽斗にしまわれ、忘れられ、また思い出されつつ記憶の片隅に確かにあり続けるかのような天衣無縫の孤独の詩性を、生駒大祐句集『水界園丁』に私は見る。

寒鯉の己が名知らねば火の如し

「己」は「し」と読むのだろう。寒中の池にじっと浮かぶ鯉は、当然のごとく鯉である自分の名前を知っているはずがなく、それを「火の如し」と言って飾るとき、そこに現れて寒鯉をしかし焼かず包み込む火の印象はまた、人の頭の中にも放たれ、静謐な景を透明に際立たせながら自他もろともに火は吞みこむ。突飛な発想を支える景の神妙な安定感は、これらが和彫の刺青の伝統的な図柄としてあるものなのだと言われても疑いを持たせはしないほどだ。

帆畳めば船あやふさの春の闇

さざ波の立つ水面に船が浮かんでいて、その船は帆を張っている。風を受けて進む船だが、一たび動きを止め帆をしまえば風の支えは失われ、波にぐらぐらと揺さぶられて船の上はちょっとした一大事である。折しも暮れてあたりは真っ暗闇、水も深く色を沈め、孤絶の感はいかにも強くなる。そうした景を描き出すのみにあらず、この句はそれら一連の偶然の風景の関わりを、まるで理ででもあるかのように因果でつなぐ。自然が誘う大きな恐怖に対して人が対抗できる術はこうしたささやかなウィットで正気を保つくらいのものなのだとは、夜にすっぽり包まれてみれば容易にわかることだ。暗闇で心に効くものは物語と歌くらいのものなのだから。

六月に生まれて鈴をよく拾ふ

いつ生まれるかを人は自ら選ぶことはできないし、また明日何が起こるかという未来を思い通りに選び取ることもできない。出生に運命付けられるはずもない日常における器物の不意の拾得は、その意味で同じ次元に並べられ結びつく。ここから見えるのは一人の人の姿である。しかもそれはあらゆる形容や意味づけを捨てた、ただその人であるというだけの人の姿だ。明瞭に読みおろせる句の構造とはうらはらの、簡単には句の描く様相を読み取らせない繊細なことばの運びに光が溢れている。

星々のあひひかれあふ力の弧

惑星系の中で星々はそれぞれの重力を及ぼしあい、絶妙な均衡のうちに運動する。我々が感知することのできる、そこにある星々はおよそみなそのバランスの上に定まった軌道に沿うものだが、その陰には強大な力がはたらいている。その「力の弧」のRが人間の視野にはほとんど直線に見えるほど大きなものであるのは言うまでもない。

この句は「雑」の部に入っており、無季の扱いだが、推測するにおそらくこのことばの排列の発想のうしろには七夕の傍題である「星合」が隠れているのではないかと思う。句をなすという意識と無意識の氾濫することばの惑星系の強大な力の中で星合はその姿を失い、季を失った静かで巨大な景がそこに残ったのだという想像がどうしても浮かんでくる。

この句集に収められた作品に、作者の実体験やパーソナリティと密接に結びついていると見られるものは少ない。「水」や「絵」といったモチーフを立たせて見せる構成はやはり句集一般の編年体的な体系とは違ったものを意図しているだろうし、「鯉」あたりに素材への体温のある偏愛が感じられるほかは、きっぱりと句作品が人間的文脈を拒否しているように思える。まるで水中に遊ばせるように一集の流れへ手を差し入れて、とりどりに句を握りしめ、きっと多くのものを握りこぼし、何か感情のかけらを引き上げてくる。そうしたことを繰り返すうち、句を読むということの、あるいは、何かを思い出すことの頼りなさ、その美しさに触れてさえざえとしてくる。

金澤の睦月は水を幾重かな

金沢を私はあまり知らない。せいぜい田中裕明の〈渚にて金沢のこと菊のこと〉や、吉田健一の小説のイメージがあるくらい、行ったことはあるにはあるのだが小さい頃だったしその趣はよくわからなかった。けれどそういった経験とは別の思い出が一つあって、それは二十一歳のとき、ネットで知り合った年近い人と通話をしたことなのだが、その人が金沢に住んでいた。当地で事務職に就きつつたまに広告モデルの仕事をしていたその人は、どこか疲れて投げやりな様子だった。何週間かにわたってやりとりするうちにぽつぽつと話してくれたのは、じつは最近離婚したのだということ、その直接の原因は流産してしまったことで、しかしそれ以前に夫の暴力がひどく、体にあざは絶えずでき、腹部も殴られたという。近ごろは写真も撮ってないしきれいだったころの、と数年前に写真家に撮ってもらったらしいものを数葉見せてもらった。白いワンピースを着た小柄なその人は確かにきれいで、笑っていた。休日はよく金沢21世紀美術館に遊びに行く、小さい子供たちがたくさんいて、明るい気分になるのだという。こうした出会いの常で、ふいにぱったりと連絡をとらなくなりその後は知らない。ただ、金沢というとその人を思い出すのは、どこであれ土地には確かに今も人が住んでいるのだといつも改めて不思議に感じ入るからだ。安井浩司が『聲前一句』において藤野古白の〈大阪や煙突にたつ雲の峰〉を引いて「地理とは時間を超えることだ」という考えを述べ、この句によって安井が「大阪」を自らのうちに得たように、確かに私の金沢もすでにしてかたちづくられたと実感する。

老鶯の思ふが儘に吾動く
蛭泳ぐ自在に蛭を司り

一句目、夏も闌けてきたころの鶯の音にまるで操られるように、自らの体がその聞こえる中にある。といって、これは別段奇妙な動きをしているわけではないだろう、ただ鳥の鳴く木の風景の中で歩くなり座るなりするだけなのだが、身体が出会った風景と一体化するかのような趣がある。二句目、蛭がおそらくは水の中で体を伸び縮みさせる様子を言い留めた。蛭は黒やオレンジ色のナメクジのような形をしている生き物だが、驚くほど伸縮して形を変える。「蛭」という不定形かとも思われるものの身体を蛭自身が律し形をなしていると見せた。これら二句には、まるでそのように感じられると思わせる、ものの実態には即しつつもイメージを遠くへと離そうとする叙述が共通している。見立てや、あるいは取り合わせで飛躍した発想を見せる句ならばよくあるが、このようにどこか幻想的な没入感のある一物仕立ては珍しい。

はんざきの水に二階のありにけり
茸から糸でて南部鉄瓶か

この二句についても同じような傾向が見られる。こちらは自然物に対しての視点の設定が独特だ。そうしてまた写実から少し身をそらしている。〈はんざきの〉、「はんざき」とはオオサンショウウオのことだが、その潜む水に「二階」があるという。川底の岩陰などに隠れるオオサンショウウオを捉えつつ、川面を見上げるような視点なのだろう、確かに流れる水には水面付近と底の方とでは明かりの入り具合やそこに居つく生き物の種類、水の流れ方も違い、それを底から見上げた様を「二階」と言っているのだ。日常目にすることはないが自然界には普通にある光景を大胆な筆致で描いている。〈茸から〉の句に持ち込まれたのはミクロな視点である。茸は菌糸という糸状の構造体が集まってできたものであり、その発生のプロセスは極小の世界の神秘とも見える。そこへぬっと姿を見せる南部鉄瓶のくろがねの質感はさながら地獄の門かと思われるほど勁く巨きい。

このようなミスティックな香気を湛えた書きぶりは本句集の面目をあらわすものであり、それがさらによく出ているのは以下のようなものだろう。

松の葉が氷に降るよ夢ふたつ
水動き止まず止むとき月日貝
蜜蜂や夢の如くに雑木山
五月来る甍づたひに靴を手に
あをふりかかる初秋の荒野あり

〈松の葉が〉の句は、はたりと松葉が落ちるほんの一瞬のことをゆったりとことばを費やすことでゆくりなく引き延ばす、そのスローモーなはたらきが行き着くところは永遠だ。永遠とは終わらないときである。なるほどだから「降る」とあるわけだ。限りなく静止に近づく永遠の運動の中で、その印象は「夢ふたつ」へ手渡される。どんな夢なのか、とは問われないことがまさにこのことばを終わらない夢にする。

〈水動き止まず〉この句も事象の動きを捉える視点に自在の緩急がある。〈蜜蜂や〉どうという明確な発見を提示するでもない無内容さが、ぬけぬけと大仰に書かれることで見事に映える。〈五月来る〉の句は季節の訪れに人の面影がかぶさり、さらにその細部が屋根に上っているというおよそ童子的な様で彩られるものだからなかなかに神がかってくる。〈あをふりかかる〉は絵画的に心象に映った風景を生々しく書き出して見せる。三島由紀夫が「荒野より」で自身のうちに見た心の荒野に通じるものもある。

天候を含めた自然物が生身の人間そっちのけで躍動し、さながら若かりし田紳有楽の世界を描くかのような作品群を見ていて気づくのは、そこに確かに根付いた心のようなものが肝心な機能を果たしているということだ。誰かが寄せた心が、自然に再び息を吹き込む。すると命が息づきだす。

愛着、という言葉があり、惹かれるものに心を寄せることくらいの意味で今は使われているが、もとは「あいじゃく」と読み、何かを好く心にとらわれて執着することを指す。愛着染色、愛染明王の愛染と同義のものである。思うに生駒大祐の俳句における本意本情はそのようなところにあるのではないか。人やその心に自らの心を寄せるも、まさに星々がそうすると同じように、引く力と同じだけ己から引き返す緊張がはたらき一句に力をこもらせる。しかしこの句集に基調としてある「水」のモチーフのようにその本情は自在に姿を変え時に溢れ、滲み、緊密に見える句の定型を軋ませる。

在ることの不思議を欅恋愛す

現生人類が滅びた後で、散らばる風物に付喪神のごとく宿った、人間の心についての思い出、そんなものを見るようではないか。

読むという体験により生まれたきれぎれの印象は、いずれ薄れ、離ればなれになって断片となり記憶のどこかに置き去られるが、いつかまたどこかで、おそらくはきっと私が俳句というものを丸ごと忘れたときに、これらの句は確かなかたちでまた帰って来るのではないか、そんな予感さえするのだった。

初出:「オルガン」19号(2019.11)